仏教語コラム ”行雲流水”
空を漂い行く雲も、とどまることなく流れる水も、自然の流れに逆らうことがないことから。
空行く雲や流れる水の行方が定めないという意味から、諸国を行脚する僧(特に禅宗の僧)をさしていう。または、単に気ままな旅のことをさす場合もある。
北宋の文豪蘇軾の言葉。「文を作るは行雲流水の如く、初めより定質無し。但常に当に行くべき所に行き、止まらざるべからざる所に止まる(文章を作るときは空を行く雲や流れる水のように、初めから決まった形があるのではない。行くべき所に行き、止まる所で止まるのだ)」
「流水行雲」ともいう。<故事ことわざ辞典より>
「仏教語コラム」第2回は少し耳に馴染みがない言葉かもしれませんが ”行雲流水(こううんりゅうすい)” です
今年も8月の終わりに大曲の花火がありましたが、ちょうど平成29年度のテーマが行雲流水でしたね
前日に多くの雨が降って開催が危ぶまれました先の大曲花火・・・
twitterやLINEニュースで流れてきた写真を見ると完全に水に覆われてしまって今年は開催できないのではないかと思いました。流れてきた画像では観客席も冠水し、一部の電気系統やケーブルも水の被害でだめになってしまったようです。しかし、天気が回復し、現地スタッフの必死の復興作業もあって無事開催されました。
開催決定が発表されると、Twitter上では「思い出に残る花火大会になるといいな」「開催できたのは多くの人の尽力があったことを忘れない」などと、喜びの声が広がり、今年も県内外から70万人以上の来場者が訪れたとのことです
twitterより
「行雲流水」とは、字のごとく雲が空に漂い、水が自然の摂理に従って流れていく様子です
禅の修行僧を雲水といいますが、その元となった言葉が「行雲流水」であり、何ものにもとらわれることのない様子や生き方を示した語句です
曹洞宗の僧侶は必ず安居(あんご)といって、両本山をはじめとした修行道場に1~∞年いくことになっています
「行雲流水」とは何事にも執着せず、自然の成り行きに身を任せること、とどまることなく自然に移り変わってよどみがないことです。ちょうど雲水(修行僧)も修行に行く際は衣やお袈裟、着替えなど修行生活に必要なものしか持っていくことができません
多くの僧侶が修行道場に行き始める10代後半~20代の若者にとって、スマートフォンが持っていけなかったり、パソコンもテレビも自由に使えず、周囲とも連絡の取れない環境にいくのは少し大変なことかもしれません。しかし、副住職にとっても思い返せば日ごろの喧騒を離れ集中して修行生活を送れた日々は大変貴重なものだったと感じています
雲水は必要なもの以外を持たず一か所にとどまらず、雲のように漂い水のように流れながら法を求めて行脚します
まあ実際このコラムはパソコンを使って書いているのですが笑 時代に合わせていろいろなものを身に着けたりデジタル世代の方々にアプローチすることも大事なことだと思っています
ただ、せめて心のどこかには「行雲流水」の心をとどめておきたいものです☺
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