東光寺の歴史 その1 ~秋田魁新報社 -秋田のお寺-より~

 

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 名君の誉れの高い九代秋田藩主佐竹義和は、清和源氏の義光流の鼻祖・新羅三郎義光の墓地の在りかや法号・没年も不明で追善法要も出来ぬことから、文化十(一八一三)年一二月、天徳寺三十九世実苗義産にこれが探索方を依頼した。四方八方に手をつくし、鎌倉や常陸の旧地を探させたが発見されず、二年後に義和も四十一歳で病死してしまい、葬礼後に天徳寺を得恵太官に譲り隠退した義産は、生前に義和と約束した義光の墓地探索のため自ら出向し、苦心の末、文政三(一八二〇)年の秋、ようやく近江国三井寺園城寺金光院(天台寺門宗)でその墓地法号忌日を尋ねあてることができた。


 文政四(一八二一)年、藩に一宇建立を申請し、寺号「東光寺」、山号「崇源山」が許可される。文政九(一八二六)年義光の七百回遠忌大法要が厳修された。佐竹氏の寺領二百石を拝領した。開山の義産は天徳寺三住の名僧で、『義産語録』などの著作を残し、その法脈からは多くの名僧を輩出した。東光寺三世満成仏果も名僧として世に知られ、のちに補陀寺三十四世に出世している。明治維新後、佐竹氏の寺領が断たれて寺運が衰退し、明治二十六(一八九三)年、仁井田村戸長・熊谷惣兵衛らの篤志により現在地に移転した。そのときの本堂は昭和四十九年に改築された。


 寺宝に東光開山語録、新羅三郎義光の木像などがある。また、元禄九(一六九六)年、大野の撫で斬り事件で有名な農民二十二名の位牌を安置供養している。


秋田魁新報社 -秋田のお寺-  より


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