東光寺の歴史 ー新羅三郎についてー
東光寺は、今かおよそ200年前、秋田藩により佐竹氏の始祖・新羅三郎源義光公(以下敬称略)の奉祭寺として創建されました。発願主は、秋田藩代9代藩主・佐竹義和(よしまさ)初代住職は実苗義産(じつみょうぎさん)です。
しかし、義光の墓所のありかを探し求めるのに6年間もの長い時間を費やしたことや、秋田藩の財政的な理由により、実際に東光寺が創建されたのは第10代藩主・佐竹義厚(よしひろ)の時代になります。長い間不明だった墓所のありかと共に、義光の戒名も判明しました。
”崇源院殿義光尊了大居士(そうげんいんでんぎこうそんりょうだいこじ)”
こちらが義光の戒名です。東光寺の山号「崇源山」は義光の院号から採用されたものであります。
佐竹氏始祖・新羅三郎義光は、源氏の頭領・源頼義の子にあたります。兄に源義家と源義綱がいます。新羅三郎の名前は、滋賀県大津市の園城寺(三井寺)北院の鎮守・新羅善神堂の神前に於いて元服したことにちなむものです。長兄は、京都男山の石清水八幡宮の神前で元服したので八幡太郎義家、次兄は、京都の賀茂神社の神前で元服したので賀茂三郎義綱とそれぞれ元服した神前に由来する名を別に持っています。
義光は、音律に巧みで笙(しょう)の名手として知られる他、弓馬の道に優れ、後三年の役(1083-87)には兄の義家を助けるため、奥州へ出向いて清原氏の乱を兄に協力して治めています。
新羅善神堂
義光は、佐竹氏のほか、甲斐の武田氏、信濃の小笠原氏の始祖になっています。1127年(大治2年)10月20日に没しています。墓所は新羅善神堂の南西側に、円墳が石の柵に囲まれた形で立派に遺っています。
東光寺初代住職の実苗義産は、墓の傍らの土をひとすくい秋田に持ち帰って、川尻上野の東光寺に霊廟を造立したと伝えられています。この霊廟は、大正12年に天徳寺の佐竹宗家のお霊屋(たまや)の隣に移築されたまま現在に至っています。
現在、東光寺には義光の位牌が遺っています。毎年10月20日、義光の祥月命日と毎日20日の月命日には懇ろに供養が続けられています。
―平成16年12月15日発行 東光寺だより第13号より―
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